子規庵と親子問題

Title: Shikian and children-parents issues. Episode. (Total 2 episodes.)
Shikian is the former residence of Mr. Shiki Masaoka (1867 - 1902), an innovator of Haiku and Tanka in Meiji era.

 

オリジナルのブログ記事はこちらから。

子規庵と親子問題 (全2話)

 

 

*****

 









皆様、こんにちは。

先日のSpiritual Guidance-Based Coaching sessionで訪れたのは、東京は台東区根岸の子規庵跡。明治時代に俳句や短歌の革新に大きく貢献した、正岡子規(慶応3年⦅1867⦆―明治35年⦅1902⦆)の住居跡です。

正岡子規は、27歳の時から、35歳で亡くなるまでの最後の約8年間を、この子規庵で過ごしました。ちょうど、日清戦争の始まった明治27年(1894)から明治35年(1902)のことです。母親、妹との同居だったそうです。子規庵では、句会が行われ、夏目漱石、森鴎外なども集っていたそうです。

子規庵は、子規が亡くなった後、残された母親、妹が暮らしていました。昭和20年、太平洋戦争の空襲で子規庵は焼失し、5年後の昭和25年に、再建されたのです。

2021年7月上旬。東京は湿度の高い日の午後でした。曇り空で雨が降りそうな空模様の中、
「子規庵」と書かれた門扉の前に立ち、場のエネルギーをじっと感じる40歳代のクライアントの女性。その表情は、当時を思い出そうとする気力に満ちていました。

この女性は、持病を抱えつつ、親子問題に苦しみながら自分の生き方を模索してきました。クリエイティブな能力があるはずなのに、思うように仕事で発揮できず、何年も苦しんできました。また、思うように創造力を発揮できない自分を許せずにいました。

これまでのセッションを通じ、その原因として、親からのコントロールが続いたために、親の気に入られる人間になろうとする傾向があり、ありのままの自分になることに恐れがあるためであることがわかってきました。ありのままの自分になろうとする度に、親から「それではいけない。」と叱られてきたのでした。

彼女のスピリチュアル・ガイドは、子規庵を訪ねるように勧めました。それまで彼女は、自分に文才、特に俳句や短歌の才能があるように感じたことは一度もありませんでした。俳句や短歌は、その感性がある人たちが詠むものだと思っていました。

ところが、この女性は、このセッションで、前世で俳句を志し、子規庵で過ごした男性としての日々を思い出していきました。そして、子規自身が、人生に苦しみ、悩み、生きていたことを思い出しました。実際、子規は長らく結核を患い、人生と闘っていました。

この女性は正岡子規の人生をたどりました。愛媛県松山市で生まれ、5歳で父と死に別れ、5歳で家督を継ぎ、俳句を志した子規は、当時の世の中にはない革新的な考え方をしていたはず。それを家族が理解できたかどうか。当時の風潮に彼の考えは早すぎたかもしれない、母親は理解できなかったかもしれない。繊細な子規は苦しんだかもしれない、と思いました。子規の親子関係も決して楽なものではなかったと、ふと思いました。

明治時代は、日本が軍国主義に入っていく時期です。男は弁論よりも、肉体的な強さを持つもの。人を殺すことで国を守る、という考え方が入ってきた頃です。軍国主義のエネルギーは、この女性には、支配的なエネルギーに感じました。子規は、結核という当時は死を意味する病を長年抱えながら、自分の生き方を通そうとすることで、俳句の世界だけでなく、軍国主義の社会全体とも闘ったのだ、と思いました。

 

*****

 

 






前世で、この男性の母親は支配的な女性でした。帝国主義的な官僚の生き方をしてほしい、と母は望みました。それが、一家の安定だと思ったからです。でも、この男性の魂は、繊細な感性を発揮する道を望みました。その結果、常にひ弱で、体力のない体を持って生まれました。妹は、母親の望むような生き方をしない兄を責めました。子規と同じ30歳代で、この男性は子規と同じく結核で亡くなりました。

亡くなる時に、自分がクリエイティブな道を選んだことを、後悔しました。もし、母親の言う道を進んでいれば、何らかの形で、家庭内のトラブルや、葛藤を減らせたのではないか、そうすれば、家の中に平和があったのではないか、と思ったのです。実際は、この男性の体力では軍人にはなれなかったと思うのですが、それでも、親の期待に沿う生き方をした方がよかったのではないか、という疑問が次の世にまで残ったのです。その結果、今世で、自分の中にある繊細でクリエイティブな能力が出せなくなってしまったのです。

前世で、俳句や短歌を愛した一人の男性として、自分がどれほど言葉を愛したか、一つ一つの記憶を思い出していきました。季語を愛し、自然を愛し、たとえ結核で体が動かなくても、宇宙とつながって、自分を解放できた。それで人生は十分だった。どうして、その思いを、もっと尊重してあげなかったのだろう。自分の思う生き方をしたかった。それを貫く道が、自分にとっては俳句や短歌だったのだ。

強い感情を思い出しながら、この女性は涙が出てきました。こんなに、言葉を愛していたなんて。自分の表現、言い回し、言葉への愛情のかけ方。こんなに一つ一つの単語に、季語に思いを込めていたなんて。自分の気持ちを尊ぶことをやめなければよかった。

今世でこの女性は、論理的な思考は得意ですが、言葉で感情を表現することは苦手だと思ってきました。でも本当は、その能力を抑えてきただけだった、と気が付きました。

前世の母親と妹は、今世の母親と妹でした。二人は、母親の思うような現代の社会的な成功を求める生き方を選ばないこの女性を責めました。この女性は、家族関係のストレスのために、20歳代半ばで体調を崩し、30歳代には、死を意識するほど重い病状でした。そのような中、弱々しい体力の限界の中で、自分の思いを書き綴るようになっていきました。自分の内側から生じる言葉を、少しずつ紡ぐようになっていったのです。

この女性は、「不思議と、今世で根岸に来たことはありませんでした。やっと自分を許して、自分のありのままを受け入れる時期になったのかもしれません。」と仰いました。

セッションの後、彼女は願うようになりました。「自分の人生を、使命感を持っていきたい。決して世の中の風潮に惑わされず、本質を見たい。」

すると、スピリチュアル・ガイドは彼女に、自分の意見をもっと世の中に流布する機会を与えますよ、と言いました。

不思議なことに、このセッションを受ける前後から、彼女が行く先々で、ホトトギスが鳴くのです。なぜホトトギスが気になるのだろう。この女性は気になっていました。実は、ホトトギスはの別称は、子規。正岡子規の雅号でした。この女性は、しみじみとした表情で納得したように、「宇宙は、このセッションを用意していてくださったのですね。」と言いました。

現在この女性は、セッションを受けたタイミングで、言葉を紡ぐ仕事をしたいと望むようになり、その方向に人生を変化させつつあります。言葉を書くことを恐れず、前世で愛したことを、今世でも続けたい。そんな思いを胸に、新たな気持ちで、ときめきとともに言葉と向き合う日々です。





子規庵HPと参照ページ
https://www.shikian.or.jp/
https://www.shikian.or.jp/about_siki/
https://www.shikian.or.jp/about_sikian/